春の夜 『朧月に小指を伸ばす』
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堀川国広と女審神者が春の夜に小さな約束を交わす話。
春の夜のように、しっとりしたお話を目指しました。お楽しみ頂ければ幸いです。
すっかり夜も更けた時間に審神者は目を覚ました。
寝ぼけ眼を擦りながらのそのそと布団から這い出て部屋の障子を開ける。開いた隙間から差し込む月明かりはぼんやりと輪郭を滲ませており、審神者は少し目を細めた。
すう、と頬を撫でた風は僅かに冬の色を残しながらも春の柔らかさを孕んでいた。
「……寒い」
あたたかい布団に包まれていた体はすぐに冷えてしまった。枕元に畳んでおいてあった羽織を肩にかけ、審神者は部屋を出る。
板張りの廊下はきしきしと音を立ててしまう為、大きな音が鳴らぬようにそろりそろりと足を進めた。ひんやりと冷たい床は不思議と心地が良いものであった。
はあ、と冷え始めた指先に息を吹きかけながら厨へと向かう。
喉が渇いた。最初は水でも飲もうと思っていたが、なんだか温かいものが飲みたい気分である。そういえば、と審神者は思い出す。この間の買い物で「また余計なものを……」と渋い顔をする歌仙を横目にココアを買った覚えがあるのだ。
厨に着いた審神者は食器棚から自分のマグカップを取り出し、続いて隣の棚からココアを取り出した。少しだけ中身が減っているのは甘い物が好きな短刀か、それとも意外にも甘い物が好きらしい太郎太刀か大倶利伽羅か。
ふふ、と笑みを溢し審神者は小さな雪平鍋にマグカップ一杯分の牛乳を注ぎ火をつけた。
火に手を近づけ暖を取る。じんわりと冷えた指先が温まり、ほっと体から力を抜いた。
春とはいえ、夜はまだまだ冷え込む。特に今日の夜はいつもよりも空気が冷たい。
吹きこぼれない程度に温めた牛乳をゆっくりとマグカップに注ぎ、ココアを溶かしてゆく。ふんわりと優しい匂いにまた体から力が抜けた。
朝の食事係に怒られないよう鍋をさっと洗い、マグカップを手にした審神者はそっと厨を出た。
そろりそろりと足を忍ばせても少し古いこの本丸の床板はきぃきぃと鳴く。
「わ、きれい……」
ふと視線を空へと向ければ今夜は空気がいつもよりも澄んでいるからか、星がよく見えた。
僅かにぼんやりと滲む月は春らしい朧月。
少し行儀は悪いが、そんな月を眺めながらココアを少し啜った。
自室に帰る道のりはあまり月がよく見えない。目が冴えてしまった審神者は少し遠回りをする事にした。
本丸で生活をする刀剣男士の数は次々と増えていき、優に五十を超える刀がこの本丸に存在している。大家族も大家族。男士の性格も様々であり、狭くても良いからと個室を希望する男士もいれば同じ刀派で纏まりたいからと大部屋を希望する男士もいた。増築を繰り返し、随分と大きく広い本丸になったなぁと長く続く廊下を進みながら審神者はしみじみと就任した頃の小さな本丸を思い出す。
曲がり角を曲がると視界が大きく開ける。審神者の私室がある側には池が広がっているのに対し、こちら側は庭が広がっている。庭弄りが趣味である男士達の手により、手入れはよく行き届いていた。大きな畑があるにも関わらず、庭の一部は家庭菜園の場にもなっていた。
綺麗な庭と、朧月。初期刀の言葉を借りるとするならば、まさに「風流」と言えた。
「……あれ、堀川?」
庭に面した長い縁側が続く先に、ぽつりと一人で座る堀川国広の姿を見付けた。
「主さん、こんばんは」
「こんばんは。どうしたの、こんな時間に」
「それはこっちの台詞ですよ。こんな遅い時間に出歩いて……また燭台切さんや長谷部さんに怒られちゃうよ」
「今日怒られてたの見た?」
「うん、見てた」
堀川の隣に審神者は腰を下ろす。部屋から座布団を持ってこようと立ち上がりかけた堀川に構わないと制し、二人は並んで縁側に座った。
特に会話もなく、二人並び夜空を見上げる。堀川の浅葱色の目に朧月がぽっかりと映り込んでいる様が水面に映る月の様にも見えると審神者は思った。
なんだか遠い過去に想いを馳せている様な、そんな表情だ。
その表情はどこか見覚えのあるそれであった。ここ暫くずっと見せていなかった表情であり、いつぐらいに見ていたものであるかと審神者は想起する。
そして、記憶の中に同じものを見付けた。
「兼さんが来る前だ」
「兼さん?」
「あ、いや……」
思わず声に出てしまった、と審神者は苦笑して誤魔化した。
しかし、堀川の目は続きを促すものであり審神者はココアに口を付けながら渋々口を開く。
「堀川のその表情がね、なんだか懐かしいなぁって思ったの。兼さんが来る前によく見てたな~って」
「……僕そんな顔してました?」
「してたしてた。もう付き合い長いんだからそれぐらいはわかるよ」
自分の顔をぺたぺたと触る堀川に審神者は笑みを溢す。
そして、堀川が何故そんな表情をしていたのかと思案する。
「何か寂しい事でも……あ、今日兼さんが遠征でいないから寂しいんだ」
「確かに今日兼さんはいないけど……違うよ。うーん……でも、そうだね。主さんの言う通りかも」
「と、言うと?」
「ちょっと寂しい気持ちになってました」
寂しげに目を細め、堀川の目はまた月へと向く。
審神者は相変わらずココアを少しずつ飲みながら堀川の声に耳を傾けた。
「春の月って、なんだか寂しい気持ちにさせるね」
「そう?」
「少しぼんやりとしてて、光が頼りないというか……」
「春のこの月はね、朧月っていうんだよ」
「おぼろづき?」
「そう」
堀川の手が審神者の方へと伸びてくる。審神者は素直にマグカップを堀川に渡すと、堀川は慣れた様子でマグカップに口を付けた。
審神者と堀川の付き合いは長い。
初期刀の歌仙に次いでこの審神者の元に顕現したのが堀川国広であった。
その視線が何を求め、何を伝えようとしているのか。
その表情でどんな気持ちを抱いているのか。
その声の調子で機嫌が良いのか悪いのか。
その少しの動作で何がしたいのか。
言葉を交わさずとも手に取るようにわかってしまう。自然と伝わってくるのだ。
それは互いに言えることであり、互いが互いの良き理解者であった。
「今日の月みたいに、ぼんやりと滲んだ様に見える月の事を朧月って言ってね。春に見ることが出来る月なんだよ」
「確かに……他の季節では見掛けないかも」
「そうそう。春限定のお月様です」
「特別だ」
「そう、特別なの」
くすくすと笑う審神者に堀川もくすくすと控え目に笑う。
加州だったか、大和守だったか。主と堀川の笑い方は似ているね、と言われた事を審神者は思い出した。
まだほんのりと湯気が立ち上る程には温かいココアを堀川から受け取った審神者は、やはり同じようにしてマグカップに口を付けた。
「このぼんやりとした光もさ、春らしくて柔らかくって私は好きなんだよね~」
「主さんが好きなら、僕も好きになれるかなぁ」
「今は好きじゃない?」
「……そうですね。なんだか、消えてしまいそうで」
「うーん……でも、っくしゅ!」
「寒い?」
「ちょっとだけね」
「待ってて」
堀川はそう審神者に告げ、背後の自室へと引っ込む。
ひんやりとした空気に全身を包まれている為、マグカップの暖だけでは当然足りていなかった。マグカップの温度も徐々に下がり、もう湯気は出ていない。
堀川と話している間は寒さなど感じていなかったのに。
肩に掛けた羽織を手繰り寄せて審神者は体を縮こまらせた。
「お待たせ」
「わっ、……布団?」
「うん。一番あったかいのってこれぐらいしか思いつかなかった」
「堀川も入る?」
「いいの? お邪魔しようかな」
「二人で入ったらちょっと狭いね」
「あ、じゃあよく岩融さんと今剣君がやってる形を取ろう」
堀川はそう言って立ち上がり、審神者の背後へと回る。膝を抱えて座っていた審神者に自分の胡座を掻いた足の間に座るよう促し、堀川は背後から審神者ごと包むように布団を羽織った。
背中に堀川の体温を感じ、確かにこれなら温かいと審神者も納得をした。
「うーん。僕の体の大きさじゃ、岩融さんと今剣君みたいにはいきませんね」
「そりゃそうでしょ」
審神者は声の大きさを控えながらも先程より大きく笑った。
きっと少し拗ねた顔をしているのだろうと審神者は肩を揺らす。
「なに笑ってるの」
「なんでもない」
その声はやっぱり拗ねた声色をしており、審神者はまた笑う。
ひとしきり笑い、マグカップの中のココアも飲みきった。
月は先程よりも西へと落ち、夜の深さも増している。頬や髪を撫でていく風がまた冷たさを増した。
そんな審神者の後頭部に、堀川の顔が寄せられる。
「どうしたの」
「主さんは、消えないでくださいね」
そう小さく呟いた声は審神者の耳にしっかりと届いた。
先程の月の光が頼りない、消えてしまいそう、という話に繋がるのだろうか。そう考えを巡らせるも、その声音があまりにも寂しげなものであり審神者は口を閉じた。
ずるずると堀川の頭は審神者の肩に落ち、布団ごとぎゅうと抱き締められる。
「堀川、月見て」
「やです」
「いいから」
「……なんですか」
肩に落ちてきた頭に自らの頭をとん、と寄せる。互いの髪が混じり合うようにして、堀川が顔を上げた。
堀川がしっかりと月を見たことを確認し、審神者は体から力を抜いて背後の堀川に全体重を預けた。
「月の光は、たしかに朧気で頼りないかもしれないけどさ」
「……うん」
「でも、月は絶対にそこにあるでしょ。光が強い時もあれば、弱い時もあるけど必ずそこにある」
「……うん」
「私も、ずっと堀川のそばにいる。私は人間だから、歳を取っておばあちゃんになっていつかは死んでしまうけど」
「っ、」
堀川が息を詰めた。
ああ、これが原因かと審神者は納得をする。
審神者は人間である。
しかし、堀川たち刀剣男士は元は刀であり付喪神。
その中でも、この堀川国広という刀剣男士はその歴史ゆえに不確かな存在であった。
「月がずっとあるように、私もずっと堀川と共にありたい」
「僕も、主さんと共にありたいよ」
「ふふ、嬉しいなぁ」
「だから、主さん。長生きしてね。魂だけになってしまったとしても僕が必ず迎えにいきますから、絶対に待っててくださいね」
「私、じっとしてられないよ?」
「主さんすぐに動いちゃって迷子になるんだもんなぁ……」
「うん、だからすぐに来てね」
「すぐに行きますよ」
何年先の話だろうか、と胸の奥底で考える。
それでもこんな幸せな事は他にはないのだろうと審神者は目を瞑った。
「主さん?」
真横から顔を覗き込むようにして堀川の声が審神者に優しく降ってくる。
こめかみにそっと押し付けられたのは堀川の唇だろうか。
胸を掻き毟りたくなるような、歯痒く、くすぐったい感情。
どんどんと人間らしく成っていく。
しかし反面、自分は人に非ずと苦しむ心を持ち合わせている。
そう思っているのは堀川だけではないと告げる事が出来たならどんなに楽であろうか。
どうして自分が彼らと同じ存在でないのかと。
でも、だからこそだ。
相容れない存在だからこそ、共にいられる形もある。
「眠いの?」
「うん。なんだか眠くなっちゃった」
「僕も眠くなってきた……ねえ、主さん。今日は一緒に寝ませんか?」
「なんだか昔みたいだね。歌仙と三人で布団並べてさ」
「そうだね。今日は歌仙さんいないけど……主さん、一緒に寝てくれる?」
「いいよ。今日の堀川は素直だなぁ」
「僕はいつだって素直だよ」
ぼんやりとしている審神者の声に堀川は苦笑した。
既に審神者の意識は微睡みに落ちており、堀川の体温と優しい声に夢うつつ状態にある。
堀川は審神者の体を慣れた手付きで抱き上げ、立ち上がる。
腕の中で穏やかな寝息をたて眠ってしまった審神者を見てから、春の夜に浮かぶ朧月を見上げた。
頼りない光は、審神者の命の灯火のように見えた。
人は簡単に命を落とす。自分が一番によく知っている事であった。その月に審神者を重ね、ぼんやりと輪郭の見えないことに恐怖を覚えた。
月が欲しいとは言わない。せめて、その光を感じ取れる場所にいたい。
なんとも傲慢であり無機物らしくない考えだろうかと自分を責めた。
それでも、それでも。
堀川はもう一度、審神者のこめかみに唇をそっと落とし、自室へと静かに入った。
翌朝、縁側に残されたマグカップを見付けた歌仙の叱る声で目覚めた二人は朝の挨拶もそこそこに笑いあう。その声に気付いた歌仙が部屋に入ってきては、「なんだか懐かしい組み合わせだね」と目尻と眉を下げて柔らかに微笑んだ。
春はいつも、柔らかい空気で満ちている。 終